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札幌地方裁判所小樽支部 昭和47年(ワ)148号 判決

主文

甲事件被告木下裕二は甲事件原告清田忠に対し金六六万三〇六〇円及び内金六〇万三〇六〇円に対する昭和四八年二月二日から、内金六万円に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

甲事件被告木下裕二は甲事件原告伊藤俊之に対し金六三万六五四〇円及び内金五七万六五四〇円に対する昭和四八年二月二日から、内金六万円に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

甲事件原告清田忠及び同伊藤俊之の甲事件被告木下裕二に対するその余の請求をいずれも棄却する。

乙事件原告木下裕亜、同木下トモヱ、同木下亮三及び同木下裕二の乙事件被告綿久寝具株式会社及び同清田忠に対する請求をいずれも棄却する。

訴訟費用はこれを二八五分し、その四を甲事件原告清田忠の、その二を同伊藤俊之の、その五〇を乙事件原告木下裕亜の、その二三を同木下トモヱの、その二〇〇を同木下亮三の、その六を甲事件被告(乙事件原告)木下裕二の各負担とする。

この判決の第一項及び第二項はいずれも仮に執行することができる。

事実

当事者双方の申立て、主張、証拠関係は次のとおりであるが、以下甲事件原告(乙事件被告)清田忠を原告清田忠と、甲事件被告(乙事件原告)木下裕二を被告木下裕二と略称し、その余の当事者については甲事件又は乙事件の表示を省略する。

一  甲事件請求の趣旨

1  被告木下裕二は原告清田忠に対し金一九一万六四四〇円及び内金一七四万二二四〇円に対する昭和四八年二月二日から、内金一七万四二〇〇円に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

2  被告木下裕二は原告伊藤俊之に対し金一三〇万五五一八円及び内金一一八万六九一八円に対する昭和四八年二月二日から、内金一一万八六〇〇円に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は被告木下裕二の負担とする。

との判決と仮執行宣言を求める。

二  甲事件請求の趣旨に対する答弁

1  原告清田忠及び原告伊藤俊之の請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は右の原告らの負担とする。

との判決を求める。

三  乙事件請求の趣旨

1  被告綿久寝具株式会社及び原告清田忠は各自

(一)  原告木下裕亜に対し金一四九六万三二六〇円及び内金一四〇六万三二六〇円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金九〇万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

(二)  原告木下トモヱに対し金六八八万七一六三円及び内金六五八万七一六三円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金三〇万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

(三)  原告木下亮三に対し金六三九二万三七三二円及び内金六一九二万三七三二円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金二〇〇万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

(四)  被告木下裕二に対し金六二万二五九六円及び内金五七万二五九六円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金五万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで各年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告綿久寝具株式会社及び原告清田忠の負担とする。

との判決と仮執行宣言を求める。

四  乙事件請求の趣旨に対する答弁

1  主文第四項と同旨

2  訴訟費用は原告木下裕亜、原告木下トモヱ、原告木下亮三及び被告木下裕二の負担とする。

との判決を求める。

五  甲事件請求の原因

1  事故の発生

原告清田忠と原告伊藤俊之は次の交通事故(以下本件事故という)によつて傷害を負わされた。

(一)  発生日時 昭和四七年一〇月一日午前五時四五分ころ

(二)  発生場所 余市郡仁木町大字大江村三五番地国道五号線道路上

(三)  加害車 普通乗用自動車(札五五せ九二〇二号、以下木下車という)

(四)  右運転者 被告木下裕二

(五)  被害車 普通貨物自動車(札一一す一二六九号、以下清田車という)

(六)  右運転者 原告清田

(七)  事故の態様 原告清田は清田車の助手席に原告伊藤を乗車させ、これを運転して国道五号線を余市町方面から倶知安町方面に向かい、時速約四〇キロで走行しながら事故現場付近に差しかかつたが、衝突地点の手前にある大江橋の上で、その前方を同じ方向に走行していた木下車をその右側から追い越すべく、ウインカーを上げて走路を道路の右側部分(以下対向車線という)に移し、追い越し態勢に入つて木下車まで二ないし三メートルの距離に接近したところ、木下車が突然ウインカーを上げないで右折を開始したため、ブレーキを踏むこともハンドルを右に切ることもできず、清田車の左前部が木下車の右側部に衝突して、本件事故が発生した。その衝突地点は大江橋の前方(倶知安町寄り、以下倶知安町寄りを南方という)五・二メートルの地点であつた。

(八)  結果 原告清田は入院三か月を要する頭顔胸左膝関節挫傷、膝蓋骨骨折等の傷害を受け、原告伊藤は入院三か月を要する頭頸背腰左膝脛挫創、頸椎捻挫等の傷害を受けて、いずれもなお通院加療中である。

2  責任原因

被告裕二は木下車を所有し、これを自己のため運行の用に供していたから、自賠法三条により原告清田、原告伊藤に生じた損害を賠償すべき責任がある。

3  損害

(一)  原告清田に生じた損害は次のとおりである(合計一九一万六四四〇円)。

(1) 坂井病院治療費 二八万七七六〇円

(2) 入通院の慰藉料 六〇万円

(3) 入院諸雑費 二万七〇〇〇円

(4) 休業補償費 八二万七四八〇円

(5) 弁護士費用 一七万四二〇〇円

(二)  原告伊藤に生じた損害は次のとおりである(合計一三〇万五五一八円)。

(1) 坂井病院治療費 二八万三六四〇円

(2) 入通院の慰藉料 六〇万円

(3) 入院諸雑費 二万七〇〇〇円

(4) 休業補償費 二七万六二七八円

(5) 弁護士費用 一一万八六〇〇円

4  そこで、被告裕二に対し原告清田は損害金一九一万六四四〇円と内金一七四万二二四〇円に対する訴状送達の日の翌日から、内金一七万四二〇〇円に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで民法所定の各年五分の割合による遅延損害金の支払を求め、原告伊藤は損害金一三〇万五五一八円と内金一一八万六九一八円に対する訴状送達の日の翌日から、内金一一万八六〇〇円に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで右と同じ割合による遅延損害金の支払を求める。

六  甲事件請求の原因に対する答弁

1のうち(一)ないし(六)の事実は認めるが、木下車が加害車で、清田車が被害車である事実は否認し、(七)と(八)の事実は否認する。

2のうち被告裕二が木下車を所有し、これを自己のため運行の用に供していた事実は認めるが、その余の事実は否認する。

3の(一)と(二)の事実は知らない。

七  甲事件抗弁(被告裕二)

1  本件事故は原告清田が清田車を運転して大江橋の上を走行中、その中央付近で、時速約四〇キロで走行中の被告裕二運転の木下車を追い越すべく、時速約七〇キロに加速して対向車線に出たところ、折から対向車が進行して来たのに気付いたためその追い越しを断念し、ハンドルを左に切つて木下車の後方の走行車線に戻ろうとした際、清田車の前部を木下車の右後部に追突させ、そのため木下車は右斜め前方に押し出され、再び清田車が木下車の右側面に衝突してそのまま約三〇メートル滑走し、両車が道路の右わきに転落して発生したものである。清田車が木下車に追突した地点は大江橋の南端から余市町寄り約六〇メートルの橋の中央付近であり、被告裕二はその追突の衝撃により意識不明に陥つた。

2  大江橋の幅員は七・六二メートルであつて、その橋の上で追い越しをするのは危険であるのに、原告清田は時速約七〇キロに加速して木下車を追い越そうとしたのであるから、その運転行為は無謀なものであつたというべきであり、更に、原告清田は前方注視義務を怠つたため清田車を木下車に追突させるに至つた。すなわち、本件事故は原告清田の一方的過失によつて発生したものであり、被告裕二には過失がなかつた。

3  木下車には構造上の欠陥及び機能上の障害がなかつた。

4  したがつて、被告裕二には原告清田、原告伊藤の両名に生じた損害を賠償すべき責任がない。

八  甲事件抗弁に対する答弁

1の事実は否認する。

2の事実は否認する。

2の事実は認める。

4の主張は争う。

九  乙事件請求の原因

1  事故の発生

亡木下雅雄は次の交通事故(本件事故)によつて死亡し、原告木下裕亜、原告木下亮三と被告木下裕二はその事故によつて傷害を負わされた。

(一)  発生日時 昭和四七年一〇月一日午前五時四五分ころ

(二)  発生場所 余市郡仁木町大字大江村三五番地先国道五号線道路上

(三)  加害車 清田車

(四)  右運転者 原告清田

(五)  被害車 木下車

(六)  右運転者 被告裕二

(七)  事故の態様 被告裕二は木下車に亡雅雄、原告裕亜、原告亮三を乗車させてこれを運転し、国道五号線を余市町方面から倶知安町方面に向かい時速約四〇キロで大江橋の上を走行中、前記七(甲事件抗弁)の1で述べたような状態で清田車に追突され、事故が発生した。

(八)  結果 (1) 亡雅雄は外傷性シヨツク、腹壁喝開創、S状結腸、小腸腸間膜破裂、腸管脱出、両大腿骨骨折のため死亡した。

(2) 原告裕亜は左膝関節血腫、顔面裂創、右母指中手首開放骨折、腰部頸部挫傷の傷害を受け、昭和四七年一〇月一日から二日まで余市病院に、翌一〇月三日から同年一二月一〇日まで小樽病院にそれぞれ入院し(七一日間)、翌一二月一一日から昭和四八年四月一〇日まで小樽病院に通院して(実日数四二日)、治療を受けた。その後遺障害は右母指機能障害と右頬骨部に一センチメートルの褐色創痕である。

(3) 原告亮三は頭蓋内出血、頸部捻挫、左大腿骨骨折、左股関節脱臼、左下腿切断、右大腿骨開放骨折兼骨髄炎の傷害を受け、その治療のため昭和四七年一〇月一日から現在まで小樽北生病院に入院している。その後遺障害は左下腿中央部切断、左股関節不全強直、右股膝足関節強直である。

(4) 被告裕二は頭部顔面挫創、胸部挫傷の傷害を受け、昭和四七年一〇月一日から六日まで余市病院に、同一〇月六日から同年一一月一六日まで小樽病院にそれぞれ入院し(四七日間)、翌一一月一七日から同月二九日まで小樽病院に通院して(実日数一三日)、治療を受けた。

2  責任原因

(一)  被告綿久寝具株式会社は清田車を所有し、これを原告清田に運転させて自己のため運行の用に供していたから、自賠法三条により原告裕亜、原告木下トモヱ、原告亮三と被告裕二に生じた損害を賠償すべき責任がある。

(二)  原告清田は清田車を運転中無謀な追い越しをなし、かつ、前方注視義務を怠つた過失によつて本件事故を発生させたから、民法七〇九条により原告裕亜らに生じた損害を賠償すべき責任がある。

3  損害

(一)  亡雅雄に生じた損害は次のとおりである(九八七万四三二六円)。

(1) 逸失利益 九八七万四三二七円

年齢七歳(昭和四〇年七月一八日生)、就労可能年数四九年(一八歳から六七歳まで)、平均賃金年額二〇四万六七〇〇円(昭和四九年度賃金センサス)、養育費控除九九万六七二〇円(一八歳から月額一万円、ライプニツツ方式)、生活費控除五或、中間利息控除ライプニツツ方式

(2) 原告裕亜、原告トモヱの相続

原告裕亜は亡雅雄の父であり、原告トモヱは亡雅雄の母である。亡雅雄の死亡により原告裕亜と原告トモヱは亡雅雄の逸失利益の損害賠償請求権を二分の一ずつ相続した。その額は各四九三万七一六三円である。

(二)  原告裕亜に生じた損害は次のとおりである(合計一〇三二万六〇九七円)。

(1) 亡雅雄の死亡による慰藉料四〇〇万円

亡雅雄は原告裕亜の三男であり、その将来を嘱望していたので、その死亡による精神的苦痛は甚大であつた。

(2) 治療費 二〇万一一五四円

治療費総額五三万〇四八四円のうち三二万九三三〇円は被告会社が支払つた。

(3) 附添看護料 二〇〇〇円

余市病院、妻原告トモヱ附添、二日分

(4) 入院諸雑費 二万一三〇〇円

七一日分、一日三〇〇円

(5) 通院交通費 一万〇五〇〇円

通院のための四二日分、一日二五〇円

(6) 逸失利益 四八六万一一四三円

(イ) 休業損害 五五万八九六一円

年齢四〇歳(昭和七年五月二三日生)、歯科技工士、平均月収八万八二五七円、休業期間昭和四七年一〇月一日から昭和四八年四月一〇日まで

(ロ) 労働能力喪失により損害四三〇万二一八二円

前記後遺障害は自賠責保険後遺障害等級表の一〇級に該当し、労働能力喪失率は二七パーセントであり、その期間は二三年である。中間利息控除はホフマン方式による。

(7) 慰藉料 二六八万円

(イ) 入院慰藉料 四〇万円

(ロ) 通院慰藉料 二八万円

(ハ) 後遺障害慰藉料 二〇〇万円

(8) 弁護士費用 九〇万円

本件訴訟を弁護士に依頼せざるを得なくなり、弁護士費用としてその報酬基準内において手数料、謝金を合わせて九〇万円を支払うことを約定した。

(9) 自賠責任保険金控除 二三五万円

亡雅雄の死亡により自賠責保険金の給付を受けたので、これを前記(1)の慰藉料の一部に充当した。

(三)  原告トモヱに生じた損害は次のとおりである(一九五万円)。

(1) 亡雅雄の死亡による慰藉料 四〇〇万円

亡雅雄は原告トモヱの三男であり、その将来を嘱望していたので、その死亡による精神的苦痛は甚大である。

(2) 弁護士費用 三〇万円

その理由は前記(二)の(8)と同じである。

(3) 自賠責保険金控除 二三五万円

亡雅雄の死亡により自賠責保険金の給付を受けたので、これを前記(1)の慰藉料の一部に充当した。

(四)  原告亮三に生じた損害は次のとおりである(六三九二万三七三二円)。

(1) 治療費 七七一万二三二九円

治療費総額一〇二三万六五一九円(昭和五〇年一〇月三一日までのもの)のうち二五二万四一九〇円は被告会社が支払つた。

(2) 附添看護料 一四〇万円

昭和四九年八月三一日まで七〇〇日間妻和子が附添看護した。一日二〇〇〇円

(3) 入院諸雑費 六〇万九〇〇〇円

昭和五一年一月三一日まで一二一八日分、一日五〇〇円

(4) 逸失利益 三八二〇万二四〇三円

(イ) 休業損害 四〇〇万円

年齢二七歳(昭和二〇年四月一二日生)、自動二輪車修理工、平均月収一〇万円、休業期間昭和四七年一〇月一日から昭和五一年一月三一日まで(四〇か月)

(ロ) 労働能力喪失による損害 三四二〇万二四〇三円

左下腿中央部切断、右大腿骨開放骨折により両下肢の用を全廃した。後遺障害等級表の一級に該当する。その労働能力喪失率は一〇〇パーセントであり、その期間は三七年である(三〇歳から六七歳まで)。賃金年額二〇四万六七〇〇円(昭和四九年度賃金センサス、男子労働者学歴計企業規模計による)、中間利息控除ライプニツツ方式

(5) 慰藉料 一四〇〇万円

(イ) 入院慰藉料 二〇〇万円

(ロ) 後遺障害慰藉料 一二〇〇万円

(6) 弁護士費用 二〇〇万円

その理由は前記(二)の(8)と同じである。

(五)  被告裕二に生じた損害は次のとおりである(六二万二五九六円)。

(1) 附添看護料 六〇〇〇円

余市病院、家族附添、一日一〇〇〇円

(2) 入院諸費用 一万四一〇〇円

四七日分、一日三〇〇円

(3) 通院交通費 三二五〇円

通院のための一三日分、一日二五〇円

(4) 休業損害 二四万九二四六円

年齢二九歳(昭和一八年一月七日生)、運転手、平均月収一一万三二九四円、休業期間昭和四七年一〇月一日から同年一二月五日まで

(5) 慰藉料 三〇万円

(6) 弁護士費用 五万円

その理由は前記(二)の(8)と同じである。

4  そこで、被告会社と原告清田に対し、(一)原告裕亜は損害金一四九六万三二六〇円と弁護士費用を除く損害金一四〇六万三二六〇円に対する本件事故発生の日の翌日の昭和四七年一〇月二日から、弁護士費用九〇万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで民法所定の各年五分の割合による遅延損害金を、(二)原告トモヱは損害金六八八万七一六三円と内金六五八万七一六三円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金三〇万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで同じ割合による遅延損害金を、(三)原告亮三は損害金六三九二万三七三二円と内金六一九二万三七三二円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金二〇〇万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで同じ割合による遅延損害金を、(四)被告裕二は損害金六二万二五九六円と内金五七万二五九六円に対する昭和四七年一〇月二日から、内金五万円に対する判決確定の日からそれぞれ支払ずみまで同じ割合による遅延損害金をそれぞれ連帯して支払うことを求める。

一〇  乙事件請求の原因に対する答弁

1のうち(一)ないし(六)と(八)の(1)の事実は認めるが、(七)の事実は否認し、その余の事実は知らない。

2の(一)のうち被告会社が清田車を所有し、これを被告清田に運転させていた事実は認めるが、その余の事実は否認する。(二)の事実は否認する。

3のうち原告裕亜、原告トモヱと亡雅雄との身分関係、亡雅雄、原告裕亜、原告亮三と被告裕二の年齢、原告裕亜と原告トモヱがその主張の自賠責保険金の給付を受けた事実、被告会社が治療費の一部を支払つた事実と原告裕亜、原告トモヱ、原告亮三、被告裕二が本件訴訟を弁護士に委任した事実は認めるが、その余の事実は知らない。

一一  乙事件抗弁(被告会社、原告清田)

1  本件事故の態様は前記五(甲事件請求の原因)の1の(七)で述べたとおりである。

2  本件事故は原告清田が木下車を追い越そうとした際、木下車が突然ウインカーを上げずに右折を開始したため、両車が衝突して発生したのであるから、本件事故は被告裕二の一方的過失によつて発生したものであり、原告清田には過失がなかつた。

3  清田車には構造上の欠陥及び機能上の障害がなかつた。

4  したがつて、被告会社と原告清田には原告裕亜、原告トモヱ、原告亮三と被告裕二に生じた損害を賠償すべき責任がない。

一二  乙事件抗弁に対する答弁

1の事実は否認する。

2の事実は否認する。

3の事実は認める。

4の主張は争う。

一三  証拠〔略〕

理由

一  昭和四七年一〇月一日午前五時四五分ころ余市郡仁木町大字大江村三五番地先国道五号線道路上で原告清田忠運転の清田車と被告木下裕二運転の木下車が衝突して本件事故が発生した事実は当事者間に争いがない。

ところで、成立に争いのない甲第四号証によると清田車はイスズ、四六年式、バン、車高三・二〇メートル、車幅二・一六メートル、車長八・四五メートル、積載量六トン、乗車定員五人の普通貨物自動車であり、木下車はプリンス、四〇年式、箱形、車高一・四二メートル、車幅一・四九メートル、車長四・一〇メートル、乗車定員五人の普通乗用自動車である事実、本件事故の現場付近道路は小樽市余市町方面から倶知安岩内町方面に通ずる国道五号線の道路で、仁木町大江農協支所(以下大江農協という)から倶知安町方面に向かつて目測約八〇〇メートルの地点に大江橋があり、その大江橋は鉄骨コンクリート造りで、全長一二七メートル、幅員六・五メートルであり、橋の上には中央線の表示と両側に路側帯の標示がある事実、大江橋の上から倶知安町方面の見通しは良好で、約一キロメートルを見通すことができる事実、大江橋の南方には道路の右わき(倶知安町方面に向かつて右方、以下同じ)に、大江川に沿つている砂利道の堤防道路(国道からの入口付近の幅員九・四メートル、有効幅員三メートル)があり、その堤防道路入口の南方に中央バスの大江橋停留所があり、更にそのバス停留所の南方に訴外斉藤正雄方に通ずる砂利道の私道(幅員三メートル)があつて、大江橋の南方から堤防道路入口の北端までの間隔は五・二メートルである事実を認めることができ、その甲第四号証と成立に争いのない甲第五号証によると大江橋の手前(余市町寄り、以下余市町寄りを北方という)の道路の左わき(倶知安町方面に向かつて左方、以下同じ)の大江橋の北端から一メートルの地点、大江橋の左側のその北端から南方八三・七〇メートルの地点、大江橋の右側のその北端から南方三九・七〇メートルの地点、大江橋の南方の道路右わきの大江橋の南端から一メートルの地点にそれぞれ一本ずつのナトリウム灯が設置されている事実を認めることができる。

そして、原告清田忠と原告伊藤俊之の各本人尋問の結果によると原告清田は事故発生の日(以下当日という)被告綿久寝具株式会社の業務のため清田車に荷物を積載し、これを函館市の中央病院と函館工場に運搬するため、午前四時三五分小樽市新光五丁目の被告会社小樽営業所を出発し、午前四時四五分ころ同市入舟町で清田車の助手席に原告伊藤俊之を同乗させ、当日午前中に函館市に到着する予定で国道五号線を走行しながら事故現場付近に差しかかつた事実を認めることができ、原告木下裕亜、原告木下亮三と被告木下裕二の各本人尋問の結果によると被告裕二は兄の原告木下裕亜、弟の原告木下亮三、原告裕亜の子亡雅雄と四人で赤井川村方面にきのこ採りと鴨撃ちに出掛けることとなり、木下車の助手席に原告裕亜を、後部座席の右側に亡雅雄を、左側に原告亮三を同乗させたうえ飼犬一頭を同乗させて、当日午前五時前ころ小樽市を出発し、原告亮三の開店準備と亡雅雄の書道塾出席のため正午ころまでに帰宅する予定で国道五号線を走行しながら事故現場付近に差しかかつた事実を認めることができる。

二  そこで、本件においては本件事故がどのような態様で発生したのかが争点であるので、各証人の証言と各本人の供述の信憑性を検討しながらその態様について判断を進める。

(一)  まず、被告裕二は本人尋問において「大江農協からずつと余市町寄りの地点で魚の冷凍車のような箱型車を追い越した」と供述し、原告裕亜も本人尋問において同趣旨の供述をしているので、原告清田と原告伊藤が各本人尋問において供述しているように、大江農協前付近では木下車が先行し、清田車がこれに追従しながら走行していた事実を認めることができる。

(二)  証人橋本八重子は第一、二回の各証言において「当日サニーバンを運転して小樽市から銀山に向かいながら国道五号線を走行中大江農協から大江橋まで至る間に、はつきりは覚えていないが、大江農協の南方のカーブを過ぎて直線になつたあたりで、清田車に追い越された」と証言しているが、同証人は第一回証言において「まもなく事故現場に着いたが、その間の清田車の走行状態は知らないし、事故の起きた瞬間のことも分からない。どういう状態で起きたかは見ていない」と証言しているし、同証人の第一回証言によつて成立を認める乙第六号証には「大江農協手前ころで後より追越した」との記載があるので、その追越地点が大江農協と大江橋の間であつたという証言は信用できない。また、同証人の第二回証言によると同証人は清田車に追い越されたときどの程度の速度で走行していたかはつきり覚えていない事実を認めることができるので、その追越時点における清田車の速度についての同証人の証言もたやすく信用できない。

ついでに、同証人は第二回証言において「清田車の運転手は鼻緒のついた雪駄のようなものを履いていた」と証言しているが、その証言は原告清田本人尋問の結果と対比して信用しないし、前記甲第四号証の実況見分調書に添付されている写真(第一葉から第六葉まで)と対照してもその信憑性のないことが明らかである。すなわち、その甲第四号証と原告清田本人尋問の結果によると原告清田は運動靴のような靴を履いていた事実を認めることができる。

(三)  前記甲第四、第五号証、乙第六号証、公証人作成部分の成立に争いがなく、その余の作成部分は証人藤田薫の証言によつて成立を認める乙第四号証、公証人作成部分の成立に争いがなく、その余の作成部分は証人相沢善明の証言によつて成立を認める乙第五号証、証人相沢の証言によつて成立を認める乙第六六号証、証人橋本(第一回)、藤田、相沢、小島正志、近藤博行の各証言と原告裕亜本人尋問の結果によると次の事実を認めることができる。すなわち、余市警察署の司法警察員訴外高橋茂、司法巡査訴外小島正志の両名は事故当日午前六時三〇分から午前七時四〇分までの間に原告清田を業務上過失傷害事件の被疑者としてその立会人となし、事故現場やその付近などの実況見分をして(以下第一回実況見分という)、その実況見分調書を作成した。原告裕亜は昭和四七年一一月二〇日ころ入院先の小樽病院で余市警察署の係官の取調べを受けたが、その捜査の方針に疑念を抱いたので、まもなく訴外福一光に事実の調査などを依頼し、みずからも尽力して事故の目撃者を探し出し、同年一二月一四日現場の近くに住む農業訴外藤田薫に「目撃証明」書(乙第四号証)を、同月三〇日現場付近を自動車(トヨタハイエース)を運転して走行していた鳶職訴外相沢善明に「目撃証明」書(乙第五号証)をそれぞれ書いてもらい、係官にこれらの資料を提出して再捜査を申請した。余市警察署の係官は事前にその目撃者という者を取調べたのち、同署の司法警察員訴外中平良夫、訴外高橋、訴外小島の三名が昭和四八年二月二二日午後二時四〇分から午後四時三五分までの間に被疑者原告清田、その同乗者原告伊藤、被疑者被告裕二、原告裕亜、訴外相沢(甲第五号証の本文には相沢喜治と記載されているが、相沢善明を指している)、その同乗者訴外近藤博行、訴外藤田の七名を立会人として事故現場やその付近などの実況見分をなし(以下第二回実況見分という)、その実況見分調書を作成した。現場付近をサニーバンを運転して走行していたというクリーニング業訴外橋本も訴外福から依頼を受け、同年六月五日「証明書」(乙第六号証)を作成してこれを訴外福に交付し、訴外相沢は昭和四九年六月二四日訴訟代理人弁護士庭山四郎の事務所に出頭してその事情を説明し、これを同弁護士に録取してもらつて、小樽検察審査会あての「陳述書」(乙第六六号証)を作成した。

(四)  原告清田は本人尋問において次のように供述している。すなわち、「事故当日の天候は霧雨であつた。原告清田は大江農協の南方のカーブを過ぎてから先行する木下車に気付いた。原告清田は大江橋の手前(北方)約一〇〇メートルの地点ではつきりと木下車を確認したが、その車間距離は二〇ないし三〇メートルで、両車の速度はいずれも時速約五五キロメートルであつた。大江橋にかかるころ清田車の速度は時速五五ないし六〇キロメートルとなり、木下車の速度がやや遅くなつたので、そのころの車間距離は約二〇メートルになつた。原告清田は大江橋に入つて五〇ないし六〇メートル進行した地点で木下車を追い越すべくウインカーを上げ、中央線を越えて対向車線に進入しようとした。そのころの車間距離は一五ないし二〇メートルで、木下車は走行車線の中央付近を走行していた。約一キロメートル前方まで見通すことができたが、対向車はなかつた。原告清田は多少加速し、大江橋の半ばを過ぎたころ清田車の全部を対向車線に進入させ、そのままの状態で直進しながら走行した。清田車は木下車に追い付かなかつた。清田車が大江橋を渡り切ろうとしたとき、左斜め前方二ないし三メートルを直進していた木下車がウインカーを上げないで、突然右折した。そのときの清田車の速度は時速約六〇キロメートルで、木下車の速度は時速約五〇キロメートルであつた。原告清田は直ちにハンドルを右に切つたが、大江橋を渡つて、その南方五ないし六メートルの地点で清田車の左前部と木下車の右側部中央線付近が衝突した。そのとき木下車は右の方に約四五度斜めになつていた。原告清田は、木下車が急に右折を開始したのに気付くまでの間に、事故発生の危険を感じたことがなかつた」。

(五)  原告伊藤は本人尋問において次のように供述している。すなわち、「原告伊藤は大江農協の南方のカーブ付近で先行する木下車に気付いたが、その車間距離は約三〇メートルであつた。大江橋の北方約一〇〇メートルの地点での車間距離は一五ないし二〇メートルであつた。大江橋の上に五〇ないし六〇メートル入つてから追い越しを開始した。そのときの清田車の速度は時速約六〇キロメートルで、木下車の速度は時速約五〇キロメートルであり、その車間距離は一五ないし二〇メートルであつた。木下車は走行車線の中央付近を走行しており、車間距離が次第にせばまつてきたので、清田車はウインカーを上げ、そのままの速度で対向車線に進入したが、そのころ木下車は速度を落としたように思われた。清田車は木下車と並進するまでに至らなかつた。見通しはよかつたし、対向車はなかつた。清田車は木下車を安全に追い越せる状態で走行していた。清田車が大江橋の出口にかかつたとき、左斜め前方二ないし三メートルを走行していた木下車がウインカーを上げないで、急に右に曲がつた。大江橋の南方五ないし六メートルの地点で清田車のバンパーの左側部が木下車の右側面の中央部に衝突したが、原告伊藤はその寸前に助手席に身を伏せたので、その衝突の瞬間は見ていなかつた」。

(六)  被告裕二は本人尋問において次のように供述している。すなわち、「被告裕二は清田車を追い越したのち、時速約五五ないし六〇キロメートルで走行していたが、後方の清田車を気にしていなかつた。大江農協付近で原告裕亜から『トラツクがすごいスピードで来たから、先に行かせろ』と言われたので、後方の清田車を確認し、速度をいくらか落として待機の状態で走行した。大江農協の南方カーブを過ぎた地点で清田車に追いつかれたが、被告裕二はそのあたりから大江橋に入るまで時速四五ないし五〇キロメートルで走行した。清田車は木下車の後方一ないし二メートルまで接近しては離れるという状態で走行し、これを数回繰り返して木下車を追い越そうとしなかつた。被告裕二は清田車から早く行けと押しつけられるような感じを受け、いたずらをされていると思つた。大江橋の手前で原告裕亜が『危ないから気をつけろ。停めれ』と言つたが、被告裕二に清田車が接近していたのを感じていたので、『停めたらかえつて危い』と答えた。被告裕二は大江橋に入つても時速四五ないし五〇キロメートルで走行したが、その橋の上で清田車の動静を見たことはなく、前方だけを注視し、橋げたに衝突しないように注意しながら走行していた。清田車がいつ追い越して行くのかと思つていた。大江橋の左側のナトリウム灯が左前方に見えたのを覚えているが、そのあとのことは記憶がない。大江橋の上で対向車を見たかどうか記憶がない。清田車と衝突したことは記憶がないし、清田車と衝突の危険を感じたかどうかも記憶がない。大江橋を渡つてすぐ右折しようという話はなかつたし、被告裕二は右折することを考えたことがなく、右折の操作をしたかどうかは記憶がない」。

(七)  原告裕亜は本人尋問において次のように供述している。すなわち、「原告裕亜は大江農協の南方カーブから二〇〇ないし三〇〇メートル手前(北方)で、後方から清田車が猛スピードで接近して来るのを見たので、危険と恐ろしさを感じ、被告裕二に『スピードを落として大型車を先に行かせなさい』と言つた。そのうち木下車はそのカーブに差しかかつたが、原告裕亜が後方を見ると、清田車が木下車に衝突するぐらいにまで接近して来た。そこから二〇〇ないし三〇〇メートルの間、木下車は時速四〇キロメートルで走行していたが、清田車は木下車に猛スピードで接近しては離れ、離れては猛スピードで接近するという状態を繰り返したので、原告裕亜が『停められないか』と言うと、被告裕二は『停めたらひき殺される』と答えた。更に約一〇〇メートル走行したところで、原告亮三が『ひき殺されるのは嫌だから車から飛び出したい』と言つたので、原告裕亜はこれを制止したうえ、被告裕二に『ハンドルを持つて行けるか』と聞いた。大江橋にかかる付近では清田車を見る余裕がなかつた。大江橋にかかつたのは知つていた。原告裕亜はふと変に思い、後方を見たところ、清田車がまくりたててというか、追い上げてというか、かぶさつて来るような状態で接近して来たので、事故が起きるのではないかと危険を感じ、恐しくなつて、後部座席の亡雅雄を抱きしめようとしたとき、どかんと音がして追突され、気を失つた。その追突地点は大江橋の真中付近であつた。清田車が木下車のどの部分に衝突したのか分からなかつた。大江橋を渡つて右折するような用事はなかつたし、右折するようなことは全く念頭になかつた」。

(八)  原告亮三は本人尋問において次のように供述している。すなわち、「大江橋の手前で清田車が追い上げるようにして木下車に接近して来たかどうか記憶がない。大江橋にかかる三ないし五秒前ころ、原告裕亜と被告裕二の間で、何のためか分からないが、ざわめきが起こり、何となく殺気めいた感じがしたので、恐ろしかつた。自分が車から飛び降りようと言つた記憶はない。大江橋に入つた直後、どのあたりか分からないが、原告裕亜が後ろを向くと同時に亡雅雄に『危い』と怒鳴り、原告亮三の方に身体をかぶせるようにした。原告亮三がすぐ後ろを振り向くと、大きい物がおおいかぶさるような感じがした。原告亮三はそのあとのことは分からない。衝突したことも分からない」。

三  ここで清田車と木下車の衝突地点について検討いてみる。

(一)  前記甲第四号証と証人小島の証言によると次の事実を認めることができる。すなわち、第一回実況見分時の天候は小雨であつた。大江橋の上とその南方のアスフアルト舗装道路はぬれていた。事故後清田車と木下車は大江橋の南方の道路の右側路肩を越えてその右わきに転落したが、清田車はその前部が道路右わきの土手下に落下し、その後部が訴外斉藤方に通ずる私道にかかつて停止し、木下車は道路右側の防護さくの柱の右わきにその前部を土手下に向け、その後部を路肩にかけて停止した。大江橋の南方の道路はアスフアルト舗装で、その幅員(両路側帯までの幅員)が六・五メートルであつたが、その実況見分をした訴外小島らは清田車と木下車の衝突地点を大江橋の南方の道路上で、大江橋の左側南端から七・二メートル、その右側南端から六・五メートルの地点であつて、道路左側の路側帯の標示線から四メートル右方の地点であると認定した(ところで、前記甲第四号証の実況見分調書添付の写真(第六葉)によるとそのときに衝突地点として指示された地点は道路右側部分(対向車線)内にあつた事実を認めることができるから、その地点が大江橋の右側南端から七・二メートル、左側南端から六・五メートルというには不合理であり、訴外小島は衝突地点までの起点についてその右側(その添付図面のA点)と左側(その図面のB点)とを取り違えて記載したものと思われる)。大江橋の南端からその衝突地点までの間に道路上には急ブレーキをかけた痕跡がなかつたが、その衝突地点と認定した地点を中心に直径二ないし三メートルの範囲にわたつてガラスの破片が比較的密に散乱し、その衝突地点付近から清田車と木下車が転落した地点までの間に道路上に両車のタイヤのスリツプ痕ができていた。その衝突地点から転落した清田車までの距離は一九・八メートルで、転落した木下車までの距離は二二・八メートルであつた。転落した木下車の右側面の中央部分は何物かに当たつてえぐられたような状態で大破していたし、転落してた清田車の左前照灯の部分がへこんでいた。訴外小島らはこのような現場の状況と立会人の原告清田の説明を総合して両車の衝突地点を右のように認定した。

なお、大江橋の南端の右端と左端との間の距離(すなわち、起点とされた前記A点とB点との間の距離)は六・五メートル(前記甲第四号証)であるのか、七メートル(前記甲第五号証)であるのか判断としないが、机上の作図によると右の衝突地点は大江橋の南端から南方約五・八メートル(間隔七メートルの場合)、又は南方約六メートル(間隔六・五メートルの場合)の地点となる。

(二)  被告裕二は甲事件抗弁として「清田車が大江橋の南端から北方約六〇メートルの地点でその前部を木下車の右後方に追突させ、そのため木下車が右斜め前方に押し出され、再び清田車が木下車の右側面に衝突してそのまま約三〇メートル滑走し、両車が道路右わきに転落した」と主張している。しかし、前記二の(六)ないし(八)で指摘した木下車の運転者被告裕二、その同乗者原告裕亜、同じく原告亮三の三名の供述から右のような被告裕二の主張事実を認めることはできないし、推認することもできない。ところで、前記甲第五号証によるとその実況見分調書には、第二回実況見分が行われたとき、被告裕二は立会人として「大江橋の南方の前記三の(一)で指摘した訴外小島らの認定した衝突地点から北方六四メートルの地点(その実況見分調書添付図面のい点、大江橋の南端から北方約五八メートルの地点)あたりで清田車の左前部が木下車の右側面中央部に衝突した」と指示説明し、原告裕亜も立会人として同趣旨の指示説明をしたと記載されている事実を認めることができるが、被告裕二は本人尋問において「第二回実況見分のとき、自分は衝突地点とか、どのようにして衝突したのか、記憶がないと言つたが、それでは困るから、大体のことでよいから言つてくれと言われたので、そのように述べた」と供述し、原告も裕亜も本人尋問において「清田車が木下車のどこに衝突したのか、よく分からなかつたが、その場所などを特定してくれと言われたので、こういうことになつたのではないかと述べた」と供述している。したがつて、各本人尋問における供述からみると木下車の運転者と同乗者はいずれも大江橋の南端から約五八メートル手前の地点で清田車が木下車に追突したという事実を認識していなかつたといえる。

(三)  証人小島の証言によると被告裕二と原告裕亜は第二回実況見分のとき前記甲第五号証の実況見分調書に記載されているような指示説明をした事実を認めることができる。

しかし、証人小島は「第一回実況見分のとき、訴外小島は大江橋の上にはガラスの破片を認めなかつたし、その欄干に自動車が衝突したような痕跡を認めなかつた」と証言しており、前記甲第四号証にはそのような趣旨の記載がなく、当時の状況からみてそのような点にまで見分の注意が払われたものか疑念がないわけではないが、その実況見分調書(号第四号証)添付の写真(第二葉から第五葉まで)と対照してみるとその証言を信用することができる。

ところで、前記二の(六)で指摘したように被告裕二は大江橋の左側のナトリウム灯を見たあとのことは記憶がないと供述しているが、木下車がその手前で清田車に追突され、その運転者である被告裕二が走行状態について記憶がないまま四三・三メートル(そのナトリウム灯から大江橋の南端までの距離)を下らない距離を幅員六・五メートルの橋の両側の欄干に接触しないで直進したとみるのは不合理である。

(四)  前記乙第四号証によると訴外藤田は昭和四七年一二月一四日その目撃証明書に「なんとなく大江橋の方を見たとき乗用車がゆつくり走つて来たのを見た。次の瞬間大きな車が後からぶつかつて行つたのを目撃した。大きな車が横へ逆さに落ちて、後部が高く上がつて横倒しになるところを目撃した」旨記載した事実を認めることができ、前記甲第五号証、証人小島、藤田の各証言によると訴外藤田の居宅は大江橋の南方約二五〇メートルの地点から左折して約八〇メートル直進した地点にあり、その居宅付近に立つと大江橋とその南方の道路を見通すことができる事実を認めることができる。そして、訴外藤田は証人として次のように証言している。すなわち、「午前五時三〇分ころ『はぜ木』(稲を干すのに使用する丸太、長さ一二ないし一五尺、太さ約五寸)を片付けるため、これを居宅の裏の方にかついで運び、それを立てかけて集める作業をしていたが、一本のはぜ木を運んでその一方の端を地面につけ、これを立てかけようとして何の気なしに大江橋の方を見たとき、大江橋の半ばより倶知安寄りの地点に乗用自動車が時速二〇ないし二五キロメートルで倶知安方面に走行していたのを目撃した。一本のはぜ木を立てかけるのには、その木を両手で押しながら三歩半ぐらい歩いてほぼ垂直に立てるのであるが、時間的には三秒ないし五秒かかる。訴外藤田はそのはぜ木を立てかけるのに大江橋の方から目をそらし、はぜ木を立て終えてから、再びひよいと大江橋の方を見たとき、大江橋とその南方の道路との境目あたりで後方から来た清田車が木下車に覆いかぶさるような様子で衝突したのを目撃した。そのときドウンというような、全体に響くような大きな音がした。衝突した途端木下車は見えなくなり、清田車はそのまま前進して道路の右わきに落ちて行き、その後部が真直ぐに高く立つたのち、車体が横に倒れたのを見た」。

ところで、証人藤田の右の証言は他に反証もないので信憑性がある。そして、右の証言は清田車と木下車の衝突地点が大江橋の南端付近であることを証明する資料となる。なお、訴外藤田の目撃地点から大江橋の南端までは直線にして約三〇〇メートルの距離があると思われるから(前記甲第五号証にはその距離が約二五〇メートルとなつている)、訴外藤田がその衝突地点を大江橋の南端であるのか、その南方約六メートルの地点であるのかを的格に識別することは困難であり、また、その衝突地点が大江橋の南方約六メートルの地点であるとしても、清田車はその後部約二・四五メートルが大江橋の上に残つているのであるから、訴外藤田がその衝突地点を大江橋の南端付近であると見たとしても何ら不思議でない。

(五)  前記乙第五号証によると訴外相沢は昭和四七年一二月三〇日その目撃証明書に「大江橋の南方一〇〇メートル付近で、大江橋のセンターラインに沿つて進行して来た乗用車の後部から猛スピードでトラツクが突つかかり、私の車も正面衝突の危険を感じ、大江橋の南方約一〇〇メートルのところで停車し、トラツクが乗用車に突つかかり、かみ合つたように左側のガードレールに突進し、はずみでトラツクが飛んで行つた事故を目撃した」旨記載し、前記乙第六六号証によると訴外相沢は昭和四九年六月二七日その陳述書に「大江橋の南方約一〇〇メートルの地点に差しかかつたとき、大江橋の南端から北方約三〇メートルの地点(橋の上の地点)で大型トラツクが猛烈な勢いで走つて来て、中央線をはみ出して、左側通行をしていた小型乗用車を追い越そうとした。大型トラツクは私の車を見たからだと思うのですが、追い越しをやめ、小型乗用車の後部に突つかけ、二台とももつれ合つて、勢いよく私の車の方に飛んで来た。私は衝突を見た瞬間から恐ろしくなり、すぐ大江橋の南方約一〇〇メートルの地点で停車した。橋の上にはブレーキのあともスリツプのあとも見えなかつた」旨記載した事実を認めることができる。そしで、訴外相沢は証人として次のように証言している。すなわち、「(大島代理人の質問に対し)事故当日トヨタハイエースの助手席に訴外近藤を乗せてこれを運転し、岩内町の訴外近藤方から古平町に行く途中事故現場付近に差しかかつた。大江橋の南方一〇〇メートル前後の地点を時速約五五キロメートルで走行していたとき、大江橋の南端から北方二〇ないし三〇メートルの地点を清田車(大型トラツク)と木下車(乗用車)が並んで走つて来た。その地点で向かつて左側の清田車が向かつて右側の木下車に突つかけたように見えた。橋の南方約一〇〇メートルの地点でその状態を見た。危険を感じたのですぐ減速した。木下車は向かつて左側の方に飛んで来た。清田車はそのあとに来て、木下車の上に乗りかかるようになつてその左側に引つ繰り返つた。減速しながらその状態を見ていたが、橋の手前の中央バス大江橋停留所付近で停車し、下車した。橋の上にはブレーキをかけたあとがなかつた。(庭山代理人の質問に対し)大江橋の南方一〇〇メートルより近い地点で事故を目撃したが、目撃してすぐ徐行し、事故車が飛んで来る前にバス停留所付近で停車し、すぐ少し前進して堤防に通ずる道路のところで停車し、下車した。事故車が訴外相沢の方に飛んで来るのを見た。最初見たとき清田車と木下車は接触していた。清田車は時速一〇〇キロメートルをこえていたと思う。清田車が木下車の後部右かどに接触した瞬間に木下車は飛んだのではないかと思う。橋のたもと付近にガラス片が散乱していたのには気が付かなかつた。(水原代理人の質問に対し)バス停留所付近で停車したとき事故車は後方に引つ繰り返つていた。木下車と清田車は三〇ないし四〇メートル前方を一台ずつ横切つてから、引つ繰り返り、落ちて行つた。接触したのち木下車は向かつて左の方に向きを変え、こちらの走路に入つて来た。(富岡代理人の質問に対し)速度は清田車の方が早かつたようだが、木下車と大体同じようなものであつた。(庭山代理人の質問に対し)最初に二台の車を見たのは接触する前であつた。清田車がハンドルを左に切つた瞬間接触した。(大島代理人の質問に対し)橋の南方約一〇〇メートルの地点で事故を感じ、『やつた』と発言したが、そのとき二台の車ははつきり事故を起こした状態であつた。それは清田車が木下車にぶつかつて行つた状態であつた。木下車はその瞬間に離れて清田車より先になり、向かつて左の方にふつ飛んで行つた。清田車はずつと中央線からはみ出たまま進行し、木下車がガードレールにぶつかると、その上に乗り上がるような状態になつた。(裁判官の質問に対し)橋の南方一二〇ないし一三〇メートルの地点で、二台の車が橋の南端から北方約三〇メートルの地点を対向して来たのに気付いた。そのとき二台の車はあまり離れていなかつた。二台の車の動向には別に変化が見えたわけではない。接触したことが分かつたのは、清田車が向かつて右に入つたとき、木下車が飛ばされて来たからである。事故車が横切つた地点は前方三〇ないし四〇メートルの地点ではないかと思うが、それより近いかも知れないし、よく分からない。木下車は飛ばされてから道路わきに落ちるまで五〇ないし六〇メートル通行したと思う。事故車が前方を横切つたころ訴外相沢は徐行し、止まるか止まらないかぐらいの速度であつた。(水原代理人の質問に対し)接触事故を目撃したので危険を感じ、徐行していた」。

ところで、訴外相沢が倶知安町方面から大江橋に向かつて北進中清田車と木下車が衝突した事故を目撃したとしても、前記二の(四)と(五)で指摘した原告清田と原告伊藤の各本人尋問の結果と対比すると、その目撃地点が大江橋の南方一〇〇ないし一三〇メートルの地点であつたという訴外相沢の右のような記載と証言の信憑性については後記のように詳細に検討を加えることを要するが、前記甲第四号証の実況見分調書添付の写真(第一葉から第六葉まで)、現場付近の道路を撮影した写真であることに争いのない甲第六号証の三ないし四、乙第四一、第四二号証と対比すると、その衝突地点が大江橋の南端から北方二〇ないし三〇メートルの橋の上であつたという訴外相沢の右のような記載と証言はたやすく信用することができない。なぜなら、それらの写真を対照してみると訴外相沢がほぼ真正面から対向して来た清田車と木下車の走行位置関係(特に大江橋を走行中の場合)を的確に認識することは困難であつたと推認することができるからである。

(六)  訴外近藤は証人として次のように証言している。すなわち、「(大島代理人の質問に対し)訴外相沢の運転するハイエースの助手席に乗つていたが、訴外相沢が『あつ事故だ』と言つた瞬間前方を見て事故を目撃した。目撃地点は大江橋の南方一〇〇ないし一三〇メートルの地点であつた。最初見たとき、大江橋の中で清田車(トラツク)が木下車(乗用車)の後方で木下車の後部を押しているような状態であつた。木下車は押されたままで先に欄干にぶつかつて、そのあと清田車が木下車の上を乗り越えるようにして引つ繰り返つた。訴外相沢はその現場(転落地点)から一〇〇メートルないぐらいの地点でハイエースを停車させ、二台の車が転落したのち発進して、再びバス停留所付近でハイエースを停車させ、二人で下車した。(庭山代理人の質問に対し)最初見たとき大江橋の南端から橋の上の事故地点までの距離は二〇ないし三〇メートルあつたと思う。橋の上にはブレーキをかけたあとがなかつた。(水原代理人の質問に対し)最初見て事故だと思つたのは、木下車が清田車に押されて来たと思つたからで、そのとき訴外相沢が『あ、押されて来たな』と言つた。木下車が押されて来て橋から出たとき、清田車は既に対向車線に出て来ていたから、木下車はそのまま突つかられてガードレールにぶつかつて行つた。その間木下車はずつと押されて来た。(富岡代理人の質問に対し)二台の車を見る前のハイエースの速度は時速五〇キロくらいしか出ていない。あそこでカーブだからそんなに出していないはずだ。訴外相沢から『事故だ』と言われる前は横を見ていて、二台の車に気が付かなかつた」。

ところで、証人近藤の右のような証言もその目撃地点がどこであつたかによつて信憑性が左右されるが、前記(五)で証人相沢の証言について指摘したのと同じように、その走行中の位置から大江橋の上の清田車と木下車の走行位置関係、特に木下車が清田車に押されて来たという状態を的確に認識することは困難であつたと推認することができるので、事故が大江橋の南端から北方二〇ないし三〇メートルの地点で生じたという証人近藤の証言はたやすく信用できない。

(七)  そこで、以上のような証拠を対比しながら検討してみるに、まず、前記(三)、(五)、(六)で指摘したように大江橋の上には急ブレーキをかけたときにできるスリツプ痕や衝突したときに生ずるガラスの破片がなく、その欄干には自動車が衝突したようなあとがなかつたので、大江橋の上にはその橋の上で清田車が木下車に追突したという事実を証明する客観的証拠はない。また、前記甲第四号証のうちの清田車と木下車を撮影した写真(第二葉から第一〇葉まで)、清田車と木下車を撮影した写真であることに争いのない甲第六号証の七ないし一八、木下車を撮影した写真であることに争いのない甲第七号証の一ないし八と乙第四三ないし第五二号証によつて認められる事故後の清田車と木下車の破損状況から清田車の前部が木下車の右後部に追突したという事実を推認することもできない。なお、その写真のうちの甲第七号証の二、五、乙第四三ないし第四九号証によると木下車の右後部に損傷がある事実を認めることができるが、その損傷がどのような事情によつて生じたのか、その成因を認めるにたりる証拠はなく、その成因を推測させるにたりる証拠もない。

次に、前記(五)と(六)で指摘したところによると訴外相沢と訴外近藤は事故の状況について比較的具体的に証言しているので、その両名の事故を目撃したという証言は信用することができる。そこで、前記(一)、(四)、(五)、(六)の各証拠と原告清田、原告伊藤の各本人尋問の結果によると清田車と木下車は道路の右側部分(対向車線)の大江橋の南端から南方五・八ないし六メートルの地点で衝突し、そののちいずれもその地点から約二〇メートル右斜め前方に走行して、道路の右わきに転落した事実を認めることができる。そして、その衝突の態様についてであるが、この点について証人相沢は進路の前方を木下車が先に横切り、続いて清田車が横切つて行つて引つ繰り返つたと証言しているものの、同人はその目撃証明書に「かみ合つたように」と、陳述書に「もつれ合つて」とそれぞれ記載しているのであつて、前記甲第四号証、証人藤田、小島の各証言と原告清田本人尋問の結果によるとその衝突地点で清田車の左前部が木下車の右側部中央付近に衝突した事実を認めることができる。なお、被告裕二らは前記事実欄七の甲事件抗弁1、同じく九の乙事件請求の原因1の(七)で右と同趣旨の主張をしている。

問題は、清田車と木下車が大江橋の南方五・八ないし六メートルの地点で衝突する前に清田車が木下車に追突し、木下車を右斜め前方に押し出した事実が認められるかどうかである。この点については対向車を運転して来た訴外相沢とその同乗者訴外近藤の各証言の信憑性の有無が重要である。なぜなら、前記のように大江橋の上にはその橋の上で清田車が木下車に追突したという事実を証明する客観的証拠がないからである。

(1)  前記甲第四号証のうちの写真(第一、第二葉)、現場付近を撮影した写真であることに争いのない乙第四〇ないし第四二号証によると大江橋の北端に人が立つて南方を望むと、大江橋の南方の倶知安町寄りの道路が右の方に曲がつて樹木の陰に隠れてしまうまでその全部を見通すことができる事実を認めることができ、前記甲第四号証、市販されている地図の一部であることに争いのない乙第五三号証と原告清田本人尋問の結果によるとその大江橋の北端から見通すことのできる大江橋の南方の道路の南端までの距離は約一キロメートルである事実を認めることができる。

(2)  前記二の(六)で指摘したように被告裕二は「大江橋の上では前方だけを注視し、橋げたに衝突しないように注意しながら走行していた」が、「橋の上で対向車を見たかどうか記憶がない」と供述している。被告裕二がどうしてその記憶がないのか、その理由は分からない。木下車の運転席から見ても前方の見通しはよかつたものと推認することができるし、被告裕二は「清田車がいつ追い越して行くのかと思つていた」と供述しているので、同人の認識においても対向車との関係において清田車が木下車を追い越して行くことに危険性はなかつたものて推認することができる。

(3)  前記(五)で指摘したように訴外相沢は目撃証明書と陳述書に「大江橋の南方約一〇〇メートルの地点で停車し、事故を目撃した」と記載しているうえ、「時速約五五キロメートルで走行していたとき、清田車が木下車に突つかけたように見え、すぐ減速した。減速しながらその後の状況を見ていた」旨証言している。また、前記(六)で指摘したように訴外近藤は「訴外相沢は転落地点から一〇〇メートルないぐらいの地点でハイエースを停車させ、二台の車が転落したのち発進してその現場に近付いた。二台の車を見る前のハイエースの速度は時速五〇キロくらいしか出ていない。あそこでカーブだからそんなに出していないはずだ」と証言している。そして、清田車と木下車を最初に見たときの両車の位置関係について訴外相沢は「清田車と木下車が並んで走つて来た。接触していた。接触する前であつた。『やつた』と発言したが、そのときははつきり事故を起こした状態であつた。両車はあまり離れていなかつた」と証言し、訴外近藤は「清田車が木下車の後方で木下車の後部を押しているような状態であつた。木下車が清田車に押されて来たと思つた」と証言している。

そこで、これらの証言をみてみると、まず、訴外相沢と訴外近藤は清田車が木下車の向かつて左側を走行するに至つた状況を見ていなかつたということができ、次に、事故を最初に見たとき訴外相沢運転のハイエースは時速五〇ないし五五キロメートルで走行していたといえるところ、訴外近藤がその理由について「あそこでカーブだからそんなに出していないはずだ」と証言していることからみると、訴外相沢と訴外近藤は大江橋の南方のカーブを左折して直線状の道路に入つたのち、まもなくの地点で対向して来た二台の車又はその衝突事故を目撃したものと推認するのが相当であり、したがつて、訴外相沢の「大江橋の南方約一〇〇メートルの地点又はそれより近い地点で事故を目撃し、木下車と清田車が前方三〇ないし四〇メートルの地点を横切つて行つた」という証言は信憑性がない。そして、前記(1)で指摘した証拠によると大江橋の南端からその南方のカーブまでの距離は八〇〇メートルぐらいあるものと推認することができる。

(4)  前記二の(七)で指摘したように原告裕亜は「追突地点は大江橋の真中付近であつた」と供述しているが、「清田車が木下車のどの部分に衝突したのか分らなかつた」と供述しているうえ、その「追突」地点が大江橋の真中付近であつたという供述を裏付ける資料があるわけではない。

(5)  前記二の(四)と(五)で指摘したように原告清田と原告伊藤はいずれも「対向車はなかつた」と供述している。

(6)  前記のように清田車と木下車は大江橋の南方の道路の右側部分(対向車線)の橋の南端から五・八ないし六メートルの地点で、清田車の左前部が木下車の右側部中央付近に当たつて衝突したと認めることができるところ、前記の各証拠によつて認めることのできる事故後の清田車と木下車の破損状況と前記甲第四号証によつて認めることのできる衝突地点から転落地点までの間に生じた清田車と木下車のスリツブ痕などから、力学的にみてその衝突時の以前において清田車の前部が木下車の右後部に追突したという事実を推認することができるのか、どうかは専門家による鑑定の助けを借りなければ判断できない。

(7)  以上の諸点からみると、原告清田が木下車の追い越しを開始した時点においてはその前方に訴外相沢運転の対向車はなかつたものとみるのが相当であり、訴外相沢運転の対向車は清田車と木下車の衝突が発生した時点か、その寸前において直線状の道路部分に進入し、訴外相沢と訴外近藤はそのころから事故の状況を目撃するに至つたものとみるのが相当である。してみれば、前記(五)と(六)でも指摘したように訴外相沢と訴外近藤はその走行位置からみて大江橋の上における清田車と木下車の走行位置関係や走行状態関係を的確に認識することは困難であつたとみるのが相当であり、訴外相沢の「大江橋の南端から北方二〇ないし三〇メートルの地点で向かつて左側の清田車が右側の木下車に突つかけるように見えた。清田車が木下車の後部右かどに接触した瞬間木下車は飛んだのではないかと思う。木下車は接触したのち向かつて左の方に向きを変えた。清田車がハンドルを左に切つた瞬間接触した。接触したことが分かつたのは、清田車が向かつて右に入つたとき木下車が飛ばされて来たからである」という証言と訴外近藤の「大江橋の南端から北方二〇ないし三〇メートルの地点で清田車が後方から木下車を押しているような状態であつたので、事故だと思つた。木下車が押されて来て橋から出たとき、清田車は既に対向車線に出ていたから、木下車はそのまま突つかけられた」という証言はいずれも信用することができない。

そうすると、清田車と木下車が大江橋の南方五・八ないし六メートルの地点で衝突する以前において清田車の前部が木下車の右後部に追突し、木下車を右斜め前方に押し出したという被告裕二らの主張する事実を認めるにたりる証拠はない。

なお、訴外藤田、訴外相沢と訴外近藤はいずれも証人として「第二回実況見分が行われたときその実況見分現場に行つたが、その際その実況見分調書(甲第五号証)に立会人の指示説明として記載されている事項を指示説明しなかつた」と証言しているので、その各証言部分の信憑性の有無について検討することを省略し、同時に、その各指示説明の記載部分を証拠として採用しなかつたが、その実況見分調書添付見取図には目撃者「相沢善明」と記載されている事実と訴外近藤が「その添付見取図の〈7〉点、〈ヘ〉点で清田車が木下車の上に乗つかるようになつた」と証言し、その証言と指示説明部分とが一致している事実を指摘しておく。

四  次に双方の責任原因について検討する。

(一)  被告裕二が木下車を所有し、これを自己のため運行の用に供していた事実は当事者間に争いがない。

(二)  被告会社が清田車を所有し、これを原告清田に運転させて自己のため運行の用に供していた事実は当事者間に争いがない。

(三)  木下車と清田車にいずれも構造上の欠陥及び機能上の障害がなかつた事実は当事者間に争いがない。

(四)  被告裕二は甲事件抗弁として「原告清田は大江橋の上を走行中、(1)橋の中央付近で時速約四〇キロで走行中の木下車を追い越すべく、時速約七〇キロに加算して対向車線に出たところ、対向車に気付いたため追い越しを断念し、ハンドルを左に切つて木下車の後方の走行車線に戻ろうとしたが、(2)その際大江橋の南端から北方約六〇メートルの地点で清田車の前部を木下車の右後部に追突させ、(3)木下車を右斜め前方に押し出して、(4)再び清田車を木下車の右側面に衝突させ、そのまま約三〇メートル滑走させて木下車を道路の右わきに転落させた」と主張しているが、前記三の(一)ないし(七)で指摘したように、右の抗弁事実のうち(4)の一部(「再び」の事実を除いた部分)である「原告清田が大江橋の南方の道路の右側部分(対向車線)の橋の南端から五・八ないし六メートルの地点で清田車の左前部を木下車の右側部中央付近に衝突させ、そのまま約二〇メートル右斜め前方に走行させて木下車を道路の右わきに転落させた」との事実はこれを認めることができるが、右の抗弁事実のうち(2)と(3)の事実はこれを認めるにたりる証拠がない。そして、前記二の(四)と(五)で指摘した証拠によると原告清田は時速五五ないし六〇キロメートルで大江橋に差しかかり、橋の北端から南方五〇ないし六〇メートルの地点で木下車の追い越しを開始し、多少加速して橋の半ばを過ぎたころ清田車の全部を対向車線に進入させ、その追い越しを続けていた事実を認めることができる。

被告裕二はここで「原告清田が対向車に気付いたため追い越しを断念し、ハンドルを左に切つた木下車の後方の走行車線に戻ろうとした」と主張し、前記三の(五)で指摘したように訴外相沢はこの主張事実に符合するような証言をしているが、前記三の(七)の(7)で指摘したようにその証言は信憑性がない。また、原告清田が対向車に気付いて、追い越しを断念し、ハンドルを左に切つたというのならば、原告清田は道路左側部分(走行車線)に戻つて走行するのが普通であつたと思われるのに、このような事実を認めるにたりる証拠はなく、前記認定の衝突地点、衝突の態様からみても清田車は道路の右側部分(対向車線)をほぼ直進しながら走行していたものと推認することができるうえ、前記三の(五)で指摘したように訴外相沢は「清田車はずつと中央線からはみ出たまま進行して来た」と証言している。したがつて、原告清田がハンドルを左に切つて走行車線に戻ろうとしたという事実を認めるにたりる証拠はない。

前記二の(四)と(五)で指摘した証拠によると、原告清田は大江橋の半ばを過ぎたころ清田車の全部を対向車線に進入させると、そのままの状態で直進し、木下車を安全に追い越せるような状態で走行していた事実を認めることができる。

(五)  被告会社らは乙事件抗弁として「清田車が木下車を追い越そうとした際、木下車が突然ウインカーを上げないで右折を開始したため、清田車が木下車に衝突した」と主張している。ところで、前記二の(六)と(七)で指摘したように被告裕二は「大江橋を渡つてすぐ右折しようという話はなかつたし、自分が右折することを考えたことはなく、右折の操作をしたかどうかは記憶がない」と供述し、原告裕亜は「大江橋を渡つて右折するような用事はなかつたし、右折するようなことは全く念頭になかつた」と供述しているほか、被告裕二は「大江橋に入つたのち清田車がいつ追い越して行くのかと思つていた」と供述している。

前記一で認定したように大江橋の南端から南方に五・二メートル離れた所に大江川の堤防道路(入口付近の幅員九・四メートル)があり、証人藤田の証言によると大江橋の南方で右折してその堤防道路に入り、大江川に沿つてその道路を進んで行くと、やまべのいる川に辿り着くことができる事実を認めることができる。そこで、同証人は続いて「木下車(乗用自動車と証言しているが、木下車を指すものとみてよい)が時速二〇ないし二五キロメートルで走行していたこと、当日が日曜日であつたこと、朝の早い時間であつたことから、木下車はやまべのいる川の方に向かつて行くのかなと思つた」と証言し、証人小島は「取調べの過程で誰かが『橋を渡つてすぐ右に曲がろうした』と供述した。その供述者が誰であつたのかは、その供述録取書を見ないと答弁できない」と証言しているが、右の証人藤田の証言は同人の推測を述べたものであり、証人小島の証言は伝聞の供述であるから、右の各証言をもつて被告裕二が木下車を右折させたという事実を証明する証拠になるとみるのは相当でない。

しかし、前記二の(四)と(五)、三の(一)で指摘した証拠によると、清田車と木下車の衝突地点は大江橋の南方の対向車線(右側部分)上で、大江橋の右側南端から六・五メートル、左側南端から七・二メートル、道路左側路側帯の標示線から右方四メートルの地点であり、そのとき清田車はほぼ直進状態であつて、木下車は右の方に約四五度斜めになつた状態であつた事実を認めることができる。そこで、この事実によると木下車はその衝突地点において車体を約四五度右方に向け、対向車線に進入していたとみるほかない。そうすると、その事実から被告裕二はその衝突の寸前ころその衝突地点付近で右折を開始したものと推認するのが相当であり、したがつて、この事実に牴触する前記の被告裕二と原告裕亜の各供述は信用しない。

そして、他に反証がないので、原告清田と原告伊藤が供述しているように、木下車はそのとき右折の合図をしないで突然右折を開始した事実を認めることができる。

(六)  右の(四)と(五)で認定した事実によると本件事故は原告清田が木下車を追い越すべく対向車線を走行中、被告裕二が右折の合図をしないで突然木下車を清田車の進路の前方に進入させたことによつて発生したといえる。そうすると、まず、被告裕二には右折の合図を怠つた注意義務違反と後方の安全の確認を怠つた注意義務違反の過失があつたということができる。次に、原告清田についてであるが、前記のように原告清田は木下車を安全に追い越せるような状態で走行していたのであり、かつ、原告清田本人尋問の結果によると原告清田は前方の安全を確認したうえ、木下車の追い越しを開始し、その追い越しを開始したのちは木下車の走行状態について注意を払い、左側に寄らないように努めたうえ、木下車の速度に気を付けていた事実を認めることができるので、原告清田は先行していた木下車を追い越すにあたつて運転者に要求される注意義務(例えば道路交通法二八条四項の注意義務)を尽していたとみるのが相当であり、したがつて、原告清田には過失がなかつたということができる。

そうすると、被告裕二の甲事件抗弁は理由がないから、被告裕二は原告清田と原告伊藤に生じた損害の賠償についてその責任を免れない。また、乙事件請求の原因のうち原告清田に過失があつたとの事実が認められず、かつ、被告会社の乙事件抗弁は理由があるから、被告裕二、原告裕亜、原告トモエと原告亮三に生じた損害の賠償について原告清田にはその責任がなく、被告会社はその責任を免れる。

五  原告清田に生じた損害は次のとおりである。

(一)  原告清田本人尋問の結果によつて成立を認める甲第二号証の一と同尋問の結果によると原告清田は本件事故によつて頭顔胸左膝関節挫傷、膝蓋骨骨折、右台六肋骨骨折を負い、昭和四七年一〇月一日から一一月二〇日まで五一日間小樽市の坂井外科医院に入院して治療を受けた事実を認めることができる。

(二)  原告清田本人尋問の結果によつて成立を認める甲第三号証の一と同尋問の結果によると原告清田は(一)の坂井外科医院における治療費として二八万七七六〇円を支出した事実を認めることができる。

(三)  前記甲第二号証の一によるとその診断書には「昭和四七年一一月二〇日治療継続中」と記載されている事実を認めることができるが、原告清田が通院して治療を受けたという事実を認めるにたりる証拠はない。そこで、(一)の受傷の部位、程度などを考慮し、原告清田の慰藉料としては三〇万円の限度で認容するのが相当である。

(四)  入院諸雑費については立証がないが、入院中その種の支出をしたものと推認することができるので、一日あたり三〇〇円の限度で五一日分の一万五三〇〇円を認容する。

(五)  原告清田は休業補償費として八二万七四八〇円を請求するが、これを認めるにたりる証拠はない。これについては立証方法が容易であるのにその方法を講じないのであるから、あえて賃金センサスとか一般的基準を採用してこれを救済するというのは相当でなく、その全額を認容しないこととする。

(六)  弁護士費用については訴訟の難易、訴訟活動の程度、認容額などを考慮し、六万円の限度で被告裕二に負担させるのが相当である。

(七)  右の(二)、(三)、(四)、(六)の損害の総額は六六万三〇六〇円となる。

六  原告伊藤に生じた損害は次のとおりである。

(一)  原告伊藤本人尋問の結果によつて成立を認める甲第二号証の二と同尋問の結果によると原告伊藤は本件事故によつて頭頸背腰左膝下腿挫傷、左足挫創、頸椎捻挫等を負い、昭和四七年一〇月一日から八日までの間に七日間前記坂井外科医院に通院し、一〇月九日から一一月二〇日まで四三日間同医院に入院して治療を受けた事実を認めることができる。

(二)  原告伊藤本人尋問の結果によつて成立を認める甲第三号証の二と同尋問の結果によると原告伊藤は(一)の坂井外科医院における治療費として二八万四一四〇円を支出した事実を認めることができる。原告伊藤はそのうち二八万三六四〇円を請求するので、その全額を認容する。

(三)  前記甲第二号証の二によるとその診断書には「昭和四七年一一月二〇日治療継続中」と記載されている事実を認めることができるが、原告伊藤がその後通院して治療を受けたという事実を認めるにたりる証拠はない。そこで、(一)の受傷の部位、程度などを考慮し、原告伊藤の慰藉料としては二八万円の限度で認容するのが相当である。

(四)  入院諸雑費としては前記五の(四)と同じ理由により、一日あたり三〇〇円の限度で四三日分の一万二九〇〇円を認容する。

(五)  原告伊藤は休業補償費として二七万六二七八円を請求するが、これを認めるにたりる証拠はない。これについても前記五の(五)と同じ理由によりその全額を認容しないこととする。

(六)  弁護士費用としては前記五の(六)と同じ理由により六万円の限度で被告裕二に負担させるのが相当である。

(七)  右の(二)、(三)、(四)、(六)の損害の総額は六三万六五四〇円となる。

七  そうすると、甲事件について被告裕二に対し損害金六六万三〇六〇円と内金六〇万三〇六〇円(弁護士費用を除くもの)に対する訴状送達の日の翌日の昭和四八年二月二日(これは記録上明らかである)から、内金六万円(弁護士費用)に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで民法所定の各年五分の割合による遅延損害金の支払を求める原告清田の請求と損害金六三万六五四〇円と内金五七万六五四〇円(弁護士費用を除くもの)に対する訴状送達の日の翌日の前記昭和四八年二月二日から、内金六万円(弁護士費用)に対する判決確定の日の翌日からそれぞれ支払ずみまで右と同じ各年五分の割合による遅延損害金の支払を求める原告伊藤の請求はいずれも理由があるからこれを認容し、原告清田と原告伊藤のその余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却する。そして、乙事件について被告会社と原告清田に対し損害の賠償を求める原告裕亜、原告トモエ、原告亮三と被告裕二の各請求はいずれも理由がないからこれを棄却する。

そこで、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言について同法一九六条をそれぞれ適用して(なお、原告清田と原告伊藤はいずれも弁護士費用の遅延損害金起算日を判決確定の日の翌日として請求しているので、そのとおり認容するが、弁護士費用の請求権が判決の確定によつて発生するとみなければならないわけではないから、弁護士費用についても仮執行宣言を付することとする)、主文のとおり判決する。

(裁判官 加藤一隆)

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